生涯
1841 年、ボヘミア(現チェコ)の小さな村、ネラホゼヴェスで肉屋の息子として生まれた。16 歳でプラハに出てオルガン学校に入学。
1873 年に「賛歌」がプラハで成功、ブラームスに認められ国際的な地位を確立した。1892 年から 3 年間、アメリカ・ニューヨークの音楽院長として滞在。「新世界より」交響曲、「チェロ協奏曲」、「アメリカ」弦楽四重奏曲を作曲。
ボヘミアの民族音楽と古典派の形式を融合させた独自のスタイル。1904 年にプラハで 62 歳で世を去った。
人となり
ドヴォルザークの人となりを示す 4 つの側面。
音楽スタイル
アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)は本来ヴィオラ・ヴァイオリン奏者であり、ピアノの名手ではなかった。そのためピアノ曲も、超絶技巧の誇示より、ボヘミアの民俗舞曲や自然の情景を素直に歌わせる方向を向く。
旋律は民謡的で親しみやすく、和声は温かい。『スラヴ舞曲集』(作品46・72)はもともとピアノ連弾のために書かれ、出版者ジムロックがブラームスの推薦を受けて委嘱したものだ。後に管弦楽版が世界的成功を収め、彼の名を国際的にした。
代表作品(ピアノで弾ける)
ピアノ史への貢献
ドヴォルザークはボヘミアの舞曲リズム(フリアント、ドゥムカ、ソウセツカー等)をピアノ曲に持ち込み、チェコ国民楽派の語彙を鍵盤へ定着させた。連弾の『スラヴ舞曲集』は家庭音楽の名品として普及し、独奏では全13曲・50分超の大作『詩的な音画』作品85(1889)がロマン派ピアノ組曲の充実した一例となっている。
逸話
ドヴォルザークは筋金入りの鉄道好きとして知られる。少年時代に故郷ネラホゼヴェスを走る蒸気機関車に魅せられ、生涯にわたりプラハの駅へ日参し、機関車の番号を集め、時刻表を暗記していたと伝えられる。晩年、亡くなる直前の1904年4月にも駅を訪れたという。
学習者にとって
最も有名なのは『ユモレスク』作品101(1894、全8曲)の第7番変ト長調。誰もが耳にする旋律で、中級者にとって格好の一曲だ。アメリカ時代のスケッチ帳の素材から生まれた。
連弾ができる環境なら『スラヴ舞曲集』が最良の入口で、原典の連弾版で弾くと作品本来の姿を味わえる。独奏で挑むなら『詩的な音画』だが全曲は長大なので、まず気に入った数曲を抜き出して取り組むとよい。
関連作曲家
出典・参考
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