生涯
1824 年、ボヘミアの小さな町リトミシュルで生まれた。父はビール醸造業者で、家庭で音楽が日常的に演奏された。
プラハで音楽家として活動を始めた後、リスト・スウェーデンへの旅行を経て、1861 年にプラハに戻り、チェコ国民楽派の旗手となった。代表作はオペラ「売られた花嫁」、交響詩集「我が祖国」(「モルダウ」を含む)。
1874 年、50 歳で完全に聴覚を失う。それでも交響詩「我が祖国」と弦楽四重奏曲「我が生涯より」を作曲した。1884 年にプラハの精神病院で 60 歳で世を去った。
人となり
スメタナの人となりを示す 4 つの側面。
音楽スタイル
ベドржジフ・スメタナ(1824-1884)は、チェコ国民楽派の祖であると同時に、リストに憧れた名ピアニストでもあった。それゆえピアノ曲には、ショパン・リスト由来のロマン派的技巧と、ボヘミアの舞曲リズムが同居する。
とりわけポルカを、サロンの踊りから演奏会用の芸術作品へと高めた功績が大きい。『3つの詩的なポルカ』作品8や『チェコ舞曲集』では、故郷の舞曲精神を保ちつつ、大胆な転調と技巧を盛り込んでいる。民俗素材を単に引用せず、様式として昇華した点に本質がある。
代表作品(ピアノで弾ける)
ピアノ史への貢献
スメタナはチェコの舞曲(ポルカ、フリアント、スコチナー等)を演奏会用ピアノ曲へ結晶させ、国民楽派の鍵盤書法を切り開いた。2巻からなる『チェコ舞曲集』(1877・1879)はその集大成で、後のドヴォルザークへ道を示した。1848年には自作『6つの性格的小品』作品1をリストに献呈し、リストはこれを受け入れて彼を支援した。
逸話
スメタナは1874年、50歳で聴力を失った。同年9月に右耳、10月には左耳の聴覚も失われ、以後の傑作(連作交響詩『わが祖国』等)はすべて聴こえない状態で書かれた。晩年は精神を病み、1884年にプラハで世を去った。ドイツ語教育で育ち、チェコ語の文法を成人後に学び直した人物でもあった。
学習者にとって
入口には初期のポルカ集(『3つのサロン風ポルカ』作品7、『3つの詩的なポルカ』作品8)が向く。小品ながらスメタナ特有の歌心と転調を学べる。
『チェコ舞曲集』第2巻は本格的な難曲で、特に「ドゥパーク(踏み踊り)」は連打音・素早い跳躍・激しい転調を要求する全曲中の難所。まずポルカ集で様式感をつかんでから舞曲集へ進むのが順当だ。
関連作曲家
出典・参考
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