1879 – 1903
日本
近代
滝 廉太郎
23 歳で世を去った日本最初の本格作曲家。「荒城の月」「メヌエット」。
生涯
1879 年、東京で生まれた。父は内務省の役人、転勤で大分・富山・東京を移った。少年期に大分・竹田の岡城跡で過ごしたことが「荒城の月」の原風景となる。
東京音楽学校(現・東京芸大)で学び、首席で卒業。1901 年文部省給費生として独・ライプツィヒ音楽院に留学。日本人初の本格的西洋音楽留学生。
ライプツィヒでわずか 5 か月後に結核を発病、帰国を余儀なくされる。療養虚しく 1903 年、大分で 23 歳の若さで世を去った。「日本のシューベルト」と呼ばれる。
人となり
滝廉太郎の人となりを示す 4 つの側面。
先駆
日本最初の本格作曲家
日本人として初めて西洋音楽の本格的作曲技法を習得。日本のクラシック音楽の出発点。
歌曲
不朽の名曲
「荒城の月」「箱根八里」「花」は今も日本人なら誰もが歌う国民的歌曲。
ピアノ
日本初のピアノ独奏曲
「メヌエット」「憾(うらみ)」は日本人作曲のピアノ独奏曲の最初期作品。
早世
23 歳の死
東京音楽学校首席卒業、ドイツ留学、結核発病、急死。「日本のシューベルト」。
一日のルーティン
東京音楽学校時代から留学までの一日は 音楽学習に没頭。短い人生のすべてを音楽に捧げた。
6:00–7:00
起床、朝の散歩。
7:00–8:00
朝食、家族との時間。
8:00–12:00
東京音楽学校での授業。和声学、ピアノ、作曲。
12:00–14:00
昼食、休憩。
14:00–17:00
練習、作曲。学校での音楽実習。
17:00–19:00
夕食、休憩。
19:00–21:00
読書、楽譜研究。ドイツ語の勉強。
音楽スタイル
滝の様式は 「西洋古典派の文法 + 日本的旋律感」。短期間でしか作曲できなかったが、独自の融合を成功させた稀有な作曲家。
「荒城の月」 は日本歌曲の出発点。土井晩翠の詩に、ヨーロッパ和声と日本的短調旋律を融合させた。1903 年作。
ピアノ独奏曲「メヌエット」「憾」 は日本人作曲家のピアノ独奏曲の最初期作品。シューベルト的な内省的な短調が彼の色。
全作品リスト(主要)
歌曲
- 「四季」(春・夏・秋・冬)
- 「荒城の月」
- 「箱根八里」
- 「花」(合唱)
- 「お正月」
合唱
- 「水のゆくえ」
- 「日本男児」
- 「鳩ぽっぽ」(童謡)
代表作品(ピアノで弾ける)
ピアノ史への貢献
「日本の西洋音楽の出発点」。彼以前の日本に「日本人作曲家による西洋音楽」は事実上存在しなかった。滝の登場で、日本人が西洋音楽の文法で作曲することが可能であると証明された。「荒城の月」は今も日本人全員が知る唯一の明治期歌曲。山田耕筰、宮城道雄、中田喜直ら次世代の日本作曲家はすべて滝の遺産を起点としている。
聖地巡礼
滝廉太郎ゆかりの地は 大分・竹田(少年期)・東京・ドイツ・ライプツィヒ。
原風景
岡城跡(大分・竹田)
〒878-0013 大分県竹田市竹田
「荒城の月」の原風景となった山城跡。少年滝廉太郎が遊んだ場所。城跡からの眺望は今も同じ。
JR 豊後竹田駅から徒歩 25 分。
記念館
滝廉太郎記念館(大分・竹田)
〒878-0023 大分県竹田市竹田町
少年期を過ごした旧宅を改装した記念館。直筆譜・遺品・写真を展示。
JR 豊後竹田駅から徒歩 15 分。
墓所
万寿寺(大分)
〒870-0024 大分県大分市大字荷揚町
滝家の菩提寺。彼の墓がある。
大分駅から徒歩 15 分。
逸話
滝廉太郎の人生は明治日本の音楽史の縮図そのもの。
岡城跡の原風景
幼い滝が大分・竹田で遊んだ岡城跡(山城の廃墟)が「荒城の月」の発想源。「春高楼の花の宴…」の旋律はこの城跡を歩いた記憶から生まれた。
日本人初のドイツ留学
1901 年、文部省給費生として日本人初の本格的音楽留学生としてドイツ・ライプツィヒ音楽院に入学。同時期に同じ給費生として留学した幸田延(露伴の妹)は日本初の女性西洋音楽教師となった。
5 か月の留学
1901 年 10 月入学、1902 年 2 月発病、3 月帰国命令。わずか 5 か月のドイツ生活。それでも日本に多大な影響をもたらした。
絶筆「憾」
結核療養中、絶筆として書いたピアノ独奏曲「憾(うらみ)」。完成 1 か月後に死去。「自分のすべてをピアノ独奏曲として残した」と感じさせる傑作。
影響関係
学習者にとって
「メヌエット」 は中級者向け。日本人作曲のピアノ独奏曲の最初期作品として、歴史的価値も高い。「荒城の月」(ピアノ独奏編) は様々な編曲版があり、初級〜中級者でアレンジを選べる。「憾」 は上級者向け、絶筆の哀しみを学ぶ。