生涯
1653年、イタリアのフジニャーノで生まれた。音楽の才能を早くから示し、13歳でボローニャに出て音楽を本格的に学んだ。ボローニャの音楽アカデミー(Accademia Filarmonica)に17歳で会員として入会したほどの実力者だった。
1675年、22歳でローマに移り、以後の生涯をこの地で過ごした。ローマの有力な庇護者たちに認められ、オッティオボーニ枢機卿の下では豪華な宮殿に住み込み、毎週の音楽会を主催した。当時の一流演奏家たちが師事を求めてコレッリの元を訪れ、ローマはバロック音楽の中心地となった。
コレッリは生涯に出版した作品がわずか6集(合計48曲)だった。膨大な量を産み出したテレマンやバッハとは対照的に、徹底的に推敲し、満足のいくものだけを世に出した。この厳格な姿勢が、彼の音楽の質の高さを保証している。1713年、59歳でローマに没した。
人となり
コレッリは穏やかで温厚な性格として知られ、弟子や同僚から広く慕われた。同時代の記録には「謙虚で礼儀正しく、他の演奏家を讃える人物」として描かれている。その一方で、自分の音楽への要求は非常に厳格で、完成度を妥協しなかった。
音楽スタイル
コレッリの音楽は明確な調性感と均整のとれた構造が特徴だ。各声部が自然に歌い、不自然な跳躍を避けながら流れるように進む。バロック特有の「数字付き低音(バッソ・コンティヌオ)」の書法を洗練させ、後世の標準とした。
ヴァイオリン・ソナタでは教会ソナタ(ソナタ・ダ・キエーザ:遅・速・遅・速の4楽章構成)と室内ソナタ(ソナタ・ダ・カーメラ:舞曲を中心とした組曲形式)の2種を確立。コンチェルト・グロッソでは少人数のコンチェルティーノ群と大人数のリピエーノ群を対比させる形式を完成させた。これらはヘンデルのオルガン協奏曲・バッハのブランデンブルク協奏曲に直接受け継がれた。
代表作品
全作品リスト(主要・抜粋)
ヴァイオリン・ソナタ
- 1700ヴァイオリン・ソナタ集 Op.5(12曲)
- 第12番「ラ・フォリア」変奏曲
コンチェルト・グロッソ
- 1714コンチェルト・グロッソ集 Op.6(死後出版)
- 第8番 ト短調「クリスマス協奏曲」
トリオ・ソナタ
- 1681教会ソナタ集 Op.1
- 1685室内ソナタ集 Op.2
- 1689教会ソナタ集 Op.3
- 1694室内ソナタ集 Op.4
ピアノとの関係
コレッリはピアノ(チェンバロを含む鍵盤楽器)のための独奏曲をほとんど書いていない。彼の音楽はヴァイオリンと通奏低音(チェンバロ・チェロ等)のための作品が中心だ。しかしコレッリの音楽はピアノ教育と深く関わっている。
特にヴァイオリン・ソナタ Op.5の「ラ・フォリア」はピアノ編曲版が多数作られ、今でも演奏される。また、コレッリが確立した「ソナタ形式の原型」「通奏低音の書法」「均整ある声部進行」は、ハイドン・モーツァルトのピアノ・ソナタへの直接的な橋渡しとなった。コレッリを学ぶことは、古典派ピアノ音楽の起源を理解することでもある。
聖地巡礼
逸話
ヘンデルがローマ滞在中(1706-1710年)、コレッリのアンサンブルでリハーサルをした際、ヘンデルは管弦楽の扱いに苛立ち、コレッリのヴァイオリニストたちの弓遣いを批判した。するとコレッリは穏やかに「ヘンデル先生、北方の音楽のスタイルはイタリアでは通じないのですよ」と答えたという。後にヘンデルはコレッリの様式から大いに学んだことを認めている。
コレッリの音楽は当時すでに「永遠の古典」として扱われており、彼が亡くなって100年以上経っても演奏・出版され続けた。モーツァルトの時代にも「コレッリのソナタ集」は教本として使われていた。
影響関係
影響を受けた
- ルーカ・マレンツィオ(マドリガル音楽)
- ジョヴァンニ・レグレンツィ(ヴェネツィア楽派)
- ボローニャ楽派の弦楽音楽
影響を与えた
- ヘンデル(コンチェルト・グロッソ様式)
- ヴィヴァルディ(独奏協奏曲形式)
- テレマン(ソナタ書法)
- J.S.バッハ(ブランデンブルク協奏曲)
- タルティーニ(ヴァイオリン書法)
学習者にとって
コレッリの音楽はピアノ独奏曲としてはあまり知られていないが、「ラ・フォリア」のピアノ編曲版は美しく、バロック音楽の魅力を体験する入口として優れている。音楽理論の学習においては、コレッリのトリオ・ソナタは「声部進行の模範」として古くから使われてきた。
バロック時代の「通奏低音の実践」に興味があるなら、コレッリのソナタ集は最良の学習材料の一つ。低音部の上に即興的に和音を積み上げていく「通奏低音演奏」は、バッハやヘンデルのアンサンブル演奏の理解にも直結する。