生涯
1643年頃、アルザス地方(現フランス・ドイツ国境付近)に生まれた。若い頃にハンブルクに移り、北ドイツ・バロック鍵盤音楽の大家スヴェーリンクの弟子ハインリヒ・シャイデマンに師事した。スヴェーリンク→シャイデマン→ラインケンという北ドイツ・オルガン楽派の直系の系譜に連なる。
1663年頃にハンブルクのカタリーナ教会のオルガン奏者に就任。師シャイデマンが1663年に没した後、その後継として長年その地位を守った。ハンブルクはドイツ最大の商業都市として繁栄しており、音楽文化も盛んだった。ラインケンは「ハンブルクの音楽的権威」として50年以上その地位に君臨した。
1722年、99歳という当時としては驚異的な高齢で死去。バッハが活躍した時代にも現役で演奏を続けた伝説の長命オルガン奏者だった。
人となり
ラインケンの名を不滅にしたのは、残した音楽よりも 「バッハとの伝説的な出会い」 だ。若いバッハはラインケンの演奏を聴くためにハンブルクへ何度も足を運んだ。ある演奏会でバッハが即興演奏を披露した後、当時老齢だったラインケンが「この芸術はまだ死んでいない」と称賛したという逸話が残っている。
音楽スタイル
ラインケンの音楽は 「北ドイツ・バロックの重厚な対位法」 を代表する。スヴェーリンクから受け継いだフーガの技法と、ファンタジア(幻想曲)の自由な即興性を高度に融合させた。特にカンツォーナ(器楽的多声曲)では、複雑な対位法と大胆な和声進行が特徴だ。
トッカータとフーガの組み合わせ——最初に自由な即興的パッセージを演奏し、その後厳格なフーガで締める——は、ラインケンが洗練させた形式でもある。バッハのトッカータ・フーガ ニ短調(BWV 565)に代表される「バッハ的トッカータ」の直接の先行形がここにある。
代表作品
北ドイツ・バロック・オルガン様式の代表作。自由な即興的パッセージと厳格なフーガが交互に現れる「北ドイツ式トッカータ」の典型。バッハがこの様式を学んで吸収した。
6つのアンサンブル・ソナタからなる室内楽曲集。バッハはこの曲集の旋律を主題に使ったクラヴィーア曲を書いたことが確認されている(BWV 954等)。バッハがラインケンへ捧げた音楽的オマージュ。
スヴェーリンクの様式を継承・発展させた多声部鍵盤曲。フーガ的な主題処理と豊かな装飾音が共存する、北ドイツ・バロック鍵盤音楽の精髄。
ピアノ史への貢献
ラインケンの最大の貢献は 「バッハへの様式の伝達」 だ。バッハは若い頃にラインケンの「ホルトゥス・ムジクス」を主題にした鍵盤曲(BWV 954)を書いており、ラインケンへの敬意と吸収の跡が残っている。
また「北ドイツ式トッカータ(自由な即興部分とフーガの交互)」という形式はラインケンが完成させ、バッハのトッカータ・フーガ群(BWV 565、BWV 538など)に受け継がれた。これらのバッハ作品はピアノ・オルガン演奏者の最重要レパートリーであり、その源流の一つがラインケンだ。
ラインケンが50年以上オルガン奏者を務めた教会。若いバッハも何度かここを訪れてラインケンの演奏を聴いたとされる。ハンブルク旧市街の中心に位置し、現在も礼拝が行われる。
ラインケンが活躍した17世紀ハンブルクは、ドイツ最大の商業都市として音楽文化が隆盛を誇った。ハンブルク歌劇場は1678年開設(ドイツ最古の常設歌劇場)で、ラインケン在任期間と重なる。
逸話
バッハがラインケンを聴くためにハンブルクへ旅した際の有名な逸話がある。ある日、帰り道のバッハが宿泊費も食費も尽きて困っていると、どこからともなくニシンの頭が投げられてきた。中にはデンマークの金貨が2枚入っていた。バッハはその金貨でもう一度ハンブルクに戻り、再びラインケンの演奏を聴いた——という話が伝わっている。史実かどうかは不明だが、若きバッハのラインケンへの憧れの深さを物語る。
バッハが97歳のラインケンの前で即興演奏をした時、ラインケンは「この芸術はまだ死んでいない。だが私はそれを誰も達成できないと思っていた」と言ったとされる。老巨匠が若い後継者の実力を認めたこの場面は、音楽史上最も感動的な「引き継ぎ」のひとつだ。
- スヴェーリンク(師の師)
- ハインリヒ・シャイデマン(直接の師)
- 北ドイツ・オルガン楽派の対位法伝統
- ハンブルクの豊かな商業・文化環境
- J.S.バッハ(トッカータ・フーガ様式・「ホルトゥス」編曲)
- ゲオルク・ベーム(同時代のハンブルク周辺の音楽家)
- 北ドイツ・バロック鍵盤音楽の終着点