生涯
1681年、神聖ローマ帝国マクデブルク(現ドイツ)に生まれた。父は牧師で、2歳の時に他界。幼い頃から音楽の才能を示し、10歳でオペラを作曲したと伝えられる。しかし家族は音楽を職業とすることに強く反対したため、ライプツィヒ大学で法律を学ぶことになった。
大学在学中、テレマンは密かに作曲を続け、ライプツィヒの聖トーマス教会で演奏するなど音楽の場を確保していく。やがてその才能が認められ、法律から音楽への転身が許された。その後はゾラウ、アイゼナハ、フランクフルト、そして1721年からは生涯の拠点となるハンブルクの音楽監督に就任し、86歳で亡くなるまでその地で活躍した。
当時、テレマンはバッハよりもはるかに有名だった。1722年にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(バッハが後に就いたポスト)に最初に選ばれたのはテレマンだったが、彼はハンブルクの待遇改善を引き出すために断っている。その後の選考で2番目の候補も断り、3番目にバッハが選ばれたのは有名な話だ。
人となり
テレマンは驚異的な速筆と旺盛な好奇心の持ち主だった。異国の音楽に対するオープンな姿勢を持ち、ポーランド音楽・フランス音楽・イタリア音楽を積極的に吸収して独自のスタイルに融合させた。自らを「折衷主義者」と呼び、様々な様式を自在に使いこなした。
音楽スタイル
テレマンの音楽の特徴は明快さと親しみやすさにある。バッハの精緻な対位法とは異なり、テレマンはガラント様式(優雅で軽快なスタイル)を好み、聴衆が「すぐに楽しめる」音楽を目指した。
その音楽はポーランド・フランス・イタリアのスタイルを巧みに組み合わせた折衷主義が特徴。管楽器の扱いに特に長け、当時珍しかったフルート・オーボエ・ファゴットのための名曲を多数書いた。鍵盤音楽においては、バッハよりも「弾きやすく、親しみやすい」作風が現代でも評価されている。
代表作品(鍵盤・ピアノで弾ける)
全作品リスト(主要・抜粋)
鍵盤独奏
- 173336のファンタジア(チェンバロ)TWV 33
- 多数クラヴィーア組曲・小品集
- 1728Getreue Music-Meister(教育的小品集)
管弦楽・室内楽
- 1733タフェルムジーク(食卓の音楽)3集
- 600以上管弦楽組曲
- 多数トリオソナタ・ソナタ
- 多数協奏曲(フルート・ヴァイオリン等)
声楽・オペラ
- 40以上オペラ
- 46受難曲
- 1,000以上カンタータ
- 多数オラトリオ
ピアノ史への貢献
テレマンの鍵盤音楽、特に「36のファンタジア」は、バッハの平均律とは異なる視点でバロック鍵盤音楽の可能性を示した。各ファンタジーは1〜4声部で書かれ、様式の多様性と自由な発想が特徴的。フランス組曲風・ソナタ風・即興風など、様々なスタイルを1冊に集約している。
テレマンの「親しみやすさ」の哲学は、後の古典派の「ガラント様式」への橋渡し役を担った。バッハの複雑な対位法からハイドン・モーツァルトの明快な様式への移行期において、テレマンの音楽は重要な中間段階を示している。
聖地巡礼
逸話
テレマンは当時バッハよりはるかに有名で、1722年にライプツィヒ・聖トーマス教会のカントルに最初に選ばれた。バッハが就いたあのポストだ。テレマンはハンブルクの給料アップのカードとして使い、結局辞退。2番目の候補も断り、3番目でバッハが選ばれた。当時の「格付け」は、テレマン>グラウプナー>バッハだったわけだ。
C.P.E.バッハの「P」はフィリップの頭文字であり、テレマンの名「フィリップ」から取られている。バッハとテレマンの友情の深さを示すエピソードだ。
テレマンは晩年、植物学に夢中になり、温室で希少植物を育てることに情熱を注いだ。友人への手紙に「私は今、音楽よりも植物の方が好きかもしれない」と書いたと伝えられる。しかし86歳で亡くなるまで作曲を続けた。
影響関係
影響を受けた
- ヴィヴァルディ(イタリア協奏曲様式)
- リュリ(フランス序曲・組曲形式)
- ポーランド民俗音楽(リズム・旋律)
- コレッリ(ソナタ形式)
影響を与えた
- ハイドン(ガラント様式)
- C.P.E.バッハ(名付け子・弟子)
- グルック(オペラ改革の方向性)
- 18世紀後半の器楽音楽全般
学習者にとって
テレマンの「36のファンタジア」は、バッハの平均律の「もうひとつの選択肢」として優れた教材だ。各曲が短く(1〜3分程度)、様式の多様性が学べ、フランス・イタリア・ドイツの書法を横断的に体験できる。
バッハのような複雑な対位法は少なく、旋律の美しさと優雅さが際立っている。バロック音楽に入門したい中級者や、バッハだけでなく同時代の音楽も知りたい演奏家に特に推薦したい。