生涯
1659年、ロンドンのウェストミンスターに生まれた。父も叔父も王室礼拝堂に仕えた音楽家の家系で、幼少期から合唱少年として優れた音楽教育を受けた。10歳のときに国王チャールズ2世の王室礼拝堂合唱団に入団し、卓越した才能を発揮した。
変声期を迎えた後も音楽の道を歩み続け、20歳でウェストミンスター寺院のオルガニストに就任。1682年には王室礼拝堂のオルガニストも兼任し、最高の地位に就いた。この時期に多くの宮廷音楽・劇音楽・宗教音楽を書き、英国バロックの黄金時代を牽引した。
1689年に最高傑作のひとつ「ダイドーとエネアス」を作曲。英国初の真のオペラと評される革命的作品だった。晩年は劇場音楽に傾注し、パーセルの音楽なしには上演できない作品が続出するほど引っ張りだこだった。しかし1695年、36歳という若さで急死。墓はウェストミンスター寺院のオルガン台のそばに今も眠る。
人となり
パーセルは 天真爛漫な実験精神と英国人らしい諧謔味 を兼ね備えた人物だった。深刻な教会音楽から陽気な酒場の歌まで、どんなジャンルでも最高の出来を誇った。宮廷での礼儀を守りながら、劇場の喧騒も愛した柔軟な人格だった。
音楽スタイル
パーセルの音楽の核心は 感情的な和声の大胆さ にある。半音階的な転調・不協和音の積極的使用・通奏低音の上に積み上げる複雑な和声は、同時代の作曲家が避けた領域にも踏み込んだ。特に「グラウンド」と呼ばれる執拗に繰り返される低音の上で旋律が自由に展開する技法(シャコンヌ・パッサカリア)を得意とした。
鍵盤音楽においては、当時の英国の「ヴァージナリスト」伝統を引き継ぎながら、大陸のスタイルも融合させた。組曲・グラウンド・ファンタジーなど多様な形式を書き、後のヘンデルやエルガーら英国作曲家に巨大な影響を残した。
代表作品
英国初の真のオペラ。「ダイドーの嘆き(When I am laid in earth)」はバロック最大の悲劇的アリアとして今も演奏され続ける。
執拗な低音の繰り返しの上で旋律が変奏される鍵盤曲。パーセルのグラウンド技法の精華。ピアノで演奏される機会も多い。
シェイクスピア「真夏の夜の夢」に基づく半オペラ。全5幕の壮大な作品で、パーセルの劇場音楽の集大成。
8つの組曲からなる鍵盤曲集。アルマンド・クーラント・サラバンド・ジグなど舞曲形式の宝庫。英国バロック鍵盤音楽の代表作。
英国バロックのトランペット音楽を定義した作品。ヘンデルの「水上の音楽」に先駆ける壮麗な音響を実現した。
全作品リスト(主要・抜粋)
オペラ・舞台音楽
- 1689ダイドーとエネアス Z. 626
- 1690ディオクレシアン Z. 627
- 1691アーサー王 Z. 628
- 1692妖精の女王 Z. 629
- 1695インディアン・クイーン Z. 630(未完)
鍵盤音楽
- 1689頃鍵盤組曲 Z. 660-668
- 1680年代ト短調のシャコンヌ Z. 730
- 多数グラウンド(変奏曲)
- 多数ファンタジー、前奏曲、舞曲
室内楽
- 1683トリオ・ソナタ 12曲 Z. 790-801
- 1697トリオ・ソナタ 10曲 Z. 802-811(没後出版)
- 多数ファンタジア(ヴィオール合奏)
宗教音楽・声楽
- 多数アンセム(英国国教会のための合唱曲)
- 多数テ・デウム、マニフィカト
- 多数オード(英王室祝典曲)
- 1695マリー女王の葬送曲 Z. 860
ピアノ史への貢献
パーセルが活躍した時代はチェンバロ・ヴァージナル・クラヴィコードの時代で、現代ピアノはまだ存在しなかった。しかし彼の鍵盤音楽は、現代のピアノで演奏されるとき独特の魅力を発揮する。
特に「グラウンド」と呼ばれる低音定型の上で旋律が変奏する形式は、ピアノの左右手の役割分担と非常に相性がよく、現代ピアニストに好まれるレパートリーとなっている。バッハよりひと世代早く、複雑な和声と対位法を実践した先駆者として、鍵盤音楽の歴史に欠かせない存在だ。
パーセルが長年オルガニストを務め、今も眠る場所。オルガン台のそばに墓碑があり、「彼の音楽の永遠さのように永続して欲しい」と刻まれている。
「ダイドーとエネアス」が1689年に初演されたとされる女学校の跡地。英国オペラ誕生の地として音楽史上の聖地。
パーセルが晩年を過ごしたとされる家。チャールズ2世とウィリアム3世という激動の時代を生きた作曲家の足跡が残る地域。
逸話
パーセルの死には謎が多い。36歳という若さで急死したが、死因は当時の記録によると「チョコレートを食べた後の急病」とも「寒夜の外出による悪寒」とも伝えられる。一説には、深夜に帰宅しようとして妻に鍵を開けてもらえず、寒さで体を壊したという話もある。真相は不明のまま。
「ダイドーの嘆き」の旋律は、数百年後にまったく異なる文脈で使われ続けた。2世紀後のヴァーグナー・マーラーはこの旋律に深く影響を受けたとされ、20世紀には多くのポップ・ロックミュージシャンがサンプリングした。
パーセルはその生涯でZ番号(Zimmerman番号)のリストによると900曲以上を作曲したとされる。36年という短い生涯でこの量は、モーツァルト(35歳没・約800曲)と比較しても異例の多産さだった。
- モンテヴェルディ(イタリアン・マドリガルの語法)
- リュリ(フランス式バレエ・劇音楽の形式)
- コレッリ(イタリア・ソナタの対位法)
- 英国ヴァージナリスト(バード・ギボンズ等の鍵盤技法)
- ヘンデル(英国オペラ・オラトリオの確立)
- エルガー(英国音楽のナショナリズム的意識)
- ブリテン(「青少年のための管弦楽入門」でパーセルを引用)
- マーラー、R.シュトラウス(半音階的和声の伝統)
学習者にとって
パーセルの鍵盤曲はバッハ・ヘンデルに比べると現代では演奏頻度が低いが、中〜上級者が「バロック音楽の多様性」を学ぶ絶好の素材だ。
初めて弾くなら「ト短調のシャコンヌ Z. 730」がおすすめ。低音の執拗な繰り返しの上で旋律が徐々に変化していく構造は非常に分かりやすく、かつ感動的だ。鍵盤組曲(Z. 660-668)の中の短い舞曲も入門として適している。
パーセルの音楽で最も大切なのは アーティキュレーション(音の切り方・繋げ方)の感覚。スラーとスタッカートの対比がバッハより細かく指定されており、これを丁寧に守るだけで英国バロック特有の「語りかける」ような音楽に仕上がる。