生涯
1643年、イタリア中部のノイチェレッラ(現在のモンタルト・ディ・カストロ近郊)に生まれた。ローマで音楽家として活動し始めたが、1677年に大スキャンダルを起こす。ヴェネツィアの有力貴族コンタリーニ家の婚約者の女性ホルテンシア・ダ・フェラーリを連れて逃亡したのだ。
コンタリーニ家は刺客を送りストラデッラの暗殺を企てた。しかし刺客たちはトリノでストラデッラの演奏を聴いて感動し、殺せなかった——という伝説が残る。ストラデッラはジェノヴァに逃れ、作曲を続けたが、1682年に別の刺客によって暗殺された。39歳だった。
人となり
ストラデッラは 「天才と無謀の化身」 だった。バロック音楽の最先端を走る作曲家でありながら、社会的な常識や危険を顧みない奔放な生き方で、何度も死地をくぐり抜けた。「音楽が刺客の剣を止めた」という伝説は、彼の音楽の力と波乱の人生を象徴している。
音楽スタイル
ストラデッラの音楽は 「バロック中期の革新の塊」 だ。オペラ・オラトリオ・カンタータ・器楽曲と幅広い分野で作曲し、特に弦楽合奏における「大小アンサンブルの対比(コンチェルト・グロッソの原型)」を先駆けて実践した。
声楽では感情表現の豊かさが際立ち、特にアリア(独唱曲)の旋律の美しさはコレッリやヴィヴァルディに影響を与えた。「短い人生で多くを書いた」——39年間に数百の作品を残した多産な才能だった。
代表作品
洗礼者ヨハネとサロメの物語を題材にしたオラトリオ。サロメのセリフとアリアが特に官能的で、「誘惑する女」の音楽描写がバロック時代でも異彩を放つ。ストラデッラの声楽作品の中でも最高傑作と評される。
コンチェルティーノ(独奏群)とリピエーノ(全体合奏)の対比を用いた弦楽曲集。コレッリのコンチェルト・グロッソより前に、この「大小対比の様式」を実践していた。バロック器楽の発展史上の重要な位置を占める。
ジェノヴァ時代の晩年に書いた祝典的なセレナータ(屋外演奏のための大規模声楽曲)。暗殺の直前まで創作を続けていたストラデッラの最後の傑作のひとつで、明るく祝祭的な音楽と波乱の人生が対照をなす。
ピアノ史への貢献
ストラデッラ自身はピアノ曲を残していないが、彼が先駆けた 「コンチェルト・グロッソの様式(大小アンサンブルの対比)」 はバロック器楽の根幹となり、ピアノ協奏曲の形式に間接的に影響した。ピアノ協奏曲における「独奏ピアノ対オーケストラ」の対比は、コレッリ→ヴィヴァルディ→バッハ→モーツァルトと続く協奏曲の進化の末端にある。その源流をたどるとストラデッラが見えてくる。
ストラデッラが最後の数年間を過ごし、暗殺されたジェノヴァの中心的な教会。ジェノヴァはバロック時代の重要な音楽都市で、ストラデッラの最晩年の活動地。
ストラデッラが若い頃に活躍し、カリッシミの音楽を吸収したローマ。17世紀のローマはバロック音楽の中心地で、ストラデッラが革新的な器楽・声楽技法を磨いた場所。
逸話
「音楽が刺客を止めた」という伝説の詳細——コンタリーニ家の刺客がトリノのストラデッラのコンサートを聴いて感動し、帰国した——は19世紀になって広く知られるようになった。この伝説を主題にしたフリードリヒ・フォン・フロトーのオペラ「アレッサンドロ・ストラデッラ」(1844年)はドイツで大ヒットし、ストラデッラの名は19世紀の音楽ファンに広く知られることになった。「実際に何があったか」よりも「何が語られたか」が歴史の中で生き続けることがある。
ストラデッラの死の真相は今も謎だ。コンタリーニ家の報復説、別の女性スキャンダル説、政治的陰謀説——複数の仮説が出されたが、決定的な証拠はない。「謎の死に終わった天才」というイメージが、彼の音楽にロマンティックな後光を与え続けている。
- カリッシミ(オラトリオ様式)
- ローマ・バロックの声楽伝統
- ヴェネツィア楽派の器楽様式
- コレッリ(コンチェルト・グロッソの先駆)
- ヘンデル(声楽劇的表現)
- フロトー(オペラ「ストラデッラ」でロマン派へ)