生涯
1687年、ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)に生まれた。父もリュート奏者であり、幼少期から家業として楽器を学んだ。若い頃にローマでイタリアの音楽を学び、カロリーヌ王女(後のイギリス王妃)の音楽家として各地を巡った。
1717年、ドレスデンのザクセン宮廷に就任。宮廷リュート奏者として名声を高め、当時最高の報酬を受けるドイツの器楽奏者の一人となった。1750年、ドレスデンで63歳で死去。バッハと同年の死(バッハは7月、ヴァイスは10月)だった。
人となり
ヴァイスは 「バッハの親友にして音楽的ライバル」 だった。二人はライプツィヒで何度か会い、即興演奏の対決(リュート対チェンバロ)を行ったとされる。互いの才能を深く尊重し合いながら、同時代の最高峰として並び立った。
音楽スタイル
ヴァイスの音楽は 「リュートの極限的表現」 だ。アルマンド・クーラント・サラバンド・ジグからなるバロック組曲の形式を保ちながら、リュートならではの——アルペジオ(分散和音)・プル(指ではじく)・繊細なトレモロ——を最大限に活用した書法は、他の楽器では再現不可能な美しさを持っていた。
バッハのチェンバロ曲と比べると、より流れるような旋律性と即興的な自由さが特徴だ。厳格な対位法より「歌う」ことを優先した結果、バッハとは異なるバロック美学を体現している。
代表作品
ヴァイスの組曲の中でも特に有名な一曲。ドイツ・バロックの重厚さとイタリア的な旋律美が融合した傑作。現代ではギターで演奏されることも多く、バロック・リュート音楽の代名詞のひとつ。
ヴァイスの初期作品で、イタリアでの修業の影響が色濃く出ている。コレッリ的なイタリア・ソナタの様式とドイツ的な精緻さが共存する、ヴァイスのスタイル確立期の重要作品。
フランス語で「墓碑銘」を意味するトンボー形式の哀悼曲。故人を追悼するために書かれたとされる感情的な大曲。ヴァイスの最も深い感情表現を示す代表作のひとつ。
ピアノ史への貢献
ヴァイスの作品は現在、多くがギターやリュートとともに ピアノでも演奏される。バロック組曲の形式——アルマンド・クーラント・サラバンド・ジグ——はバッハのピアノ組曲と同じ構造であり、ヴァイスのリュート組曲はチェンバロ・ピアノへの移植も自然だ。
また「バッハとヴァイスの対決(リュートvsチェンバロ)」は、バッハがリュート曲(BWV 995-1000等)を書くきっかけになったとされる。バッハのリュート曲はピアノで演奏される機会も多く、そこにヴァイスの影響が反映されている。
ヴァイスが長年宮廷リュート奏者として活動した場所。「ツヴィンガー宮殿」とともにドレスデンのバロック建築の白眉。ヴァイスが演奏した18世紀の豪華な宮廷文化が息づく。
バッハが活動したライプツィヒは、ヴァイスが何度か訪問し、バッハと即興演奏の対決を行ったとされる場所。バッハの活動の中心地で、二人の「友情と競争」の舞台。
逸話
バッハとヴァイスが即興演奏で対決した際、どちらが上だったか——この問いに答える記録は残っていない。両者とも自分の楽器(バッハはチェンバロ、ヴァイスはリュート)のレパートリーを演奏したとも、互いの楽器に挑戦したとも言われる。「最終的に引き分けで、二人で笑い合った」という伝説が残っているが、出典は不明だ。
ヴァイスはドレスデンで一度、弦を切られるという妨害工作を受けたとされる。嫉妬した他のリュート奏者が演奏前にヴァイスのリュートの弦を傷つけたが、ヴァイスは残った弦だけで即興演奏し、聴衆を魅了したという。「真の名人は楽器の不具合でも動じない」という話として伝わっている。
- コレッリ(イタリア・バロック様式)
- ローマでのイタリア音楽修業
- J.S.バッハ(友人としての音楽的刺激)
- フランス・リュート音楽の伝統
- J.S.バッハ(リュート組曲 BWV 995-1000 等)
- 現代のギター演奏家(レパートリーとして定着)
- バロック・リュート演奏の復興(20世紀後半)